トップへ戻る

母と古市家兄弟3人。右は田村正和と田村亮

おいたちからの写真

小学校の頃です

大学時代

よく山登りをしました

作ったのはこんな船

スイスで技術取得

微粉炭焚き発電所

玉野の設計時代

インドネシア大留学

蒸気タービンが専門

発電所をエジプトへ

タイプロジェクト仲間

脱サラできて幸せ

創立7周年記念

2009年4月沖縄です

2012年5月USJ孫

主な海外渡航暦:
       ハワイ、スイス(チューリッヒ)、インドネシア(ジャカルタ)、タイ、エジプト、アセアン

ぼくのご紹介:

古市恵三のおいたち:

       1948年(昭和23年)     京都市太秦で3人兄弟の3男で誕生
       1961(昭和36年)    京都市立太秦小学校卒業
       1964(昭和39年)     京都市立蜂ケ岡中学卒業
       1967(昭和42年)     京都府立嵯峨野高校卒業
       1968(昭和43年)    神戸大学農学部農業生産工学入学
       1969年(昭和44年)     父死去
              1972年(昭和47年)
   神戸大学大学院機械工学専攻入学
       1974年(昭和49年)   三井造船鞄社/大阪・藤永田造船所設計部
       1976(昭和51年)    岡山県玉野事業所蒸気タービン設計
       1984(昭和59年)    1年間インドネシア大学留学
       1994(平成6年)     東京本社転勤
       1996年(平成8年)    小田合繊工業鰍ヨ入社、大阪で省エネルギー事業発足
       2001年(平成13年)   タクマとでエナジーメイト発足
              2002年(平成14年)     京都市下京区醒ケ井高辻へ引っ越し
       2003年(平成15年)     母死去
        2015年(平成23年)     エナジーメイト創立15周年を迎える
                 現在に至る

2008還暦を迎えたとき、過去を振り返えろうと思いました。思えば長い人生。この機会に自分の生き様を総括してみようと思ったのですがだめでした。まだまだ現在進行形。ギタギタ脂ぎっています。そういえば40歳を迎えたときも同じ思いを感じました。40歳になったら自分の顔に責任を持とう。その思いで鏡を見たときの貧相な顔。人生っていくつになっても初心者なんですね。

古市家のルーツ
父は自分の生い立ちをほとんど話さない人でした。「武士の出やで!」って一度だけ聞いたことがあります。最近兄が調べたところによると、九州6ケ国守護を務めた戦国時代のキリシタン大名大友宗麟の大友家支配に生涯を捧げた立花道雪という人に行きつくらしい。
父は大分の資産家である立花さんという方に誘われて映画界に入りました。映画好きの立花さんのおかげで阪東妻三郎と出会うことになります。
母は丸亀市の産婦人科医の出です。いつも親族に負けたくないって言っていました。母の負けず嫌いがこんにち古市家安定の基礎を築いたと言えるでしょう。

田村家との関係:
古市家にとって田村(阪東妻三郎)家の存在はとても大きい。
父はいとこと一緒に、親にではなく祖父に育てられました。そのいとこが立花さんの介添えで阪東妻三郎に嫁ぎました。つまり僕からするといまの田村三兄弟はハトコになります。

幼少の頃:
      
我が家は阪東妻三郎と隣同志に住んでいました。いつも田村家で遊んでいて、近所の子どもたちとはあまり遊ばなかったような気がします。
親父のこと:  
阪妻プロダクション時代は父は社長兼小使いでした。父はいつも阪妻におびえていました。阪妻があまりにも秀でており、きっと父が不甲斐なくてしかたなかったのでしょう。阪妻亡きあと(ぼくが3歳)独立。多分父はホッとしたのではないでしょうか。日本で始めて「照明機材および照明技術者貸出業」を始めました。今でも兄嫁がこの事業を続けています。2014年には創業60周年を迎えました。いつもお金に追いかけられていたけれど、僕はずっと父の背を尊敬を込めて見つめていました。

学生時代:      
不器用、自意識過剰、臆病、自分に自信ない、おとなしい。そんな自分が好きではなかった。これまで一度も腕力けんかしたこともありません。ただ環境だけはずっと気になっていました。当時地球から酸素がなくなることを心配。地球をみかんに例えると大気の層の厚さはワックス程度。その中で行われる人間活動はすべて酸素を消費し、煙を排出する。何とかしなければ。。。環境に関わりたかったから実家を継ぐことは考えませんでした。

三井造船時代
一流企業に身を置けたことは幸せでした。質高くまじめな人材が多かった。仕事は一生懸命したつもり。「仕事とは当たり前のことを当たり前にやること」。でもこれがなかなかむつかしい。三井造船23年間、僕は萎縮していました。でも「ものごとを正しいか正しくないかで判断する」ということを尊敬する先輩から教えてもらいました。そうすれば結論出すのが簡単。いろんなしがらみで判断狂わされることなきよう、これからも正しいと思うことを実行していきたいと思います。

脱サラ後:      
三井造船飛び出してからの僕の人生は大きく変わりました。世の中広い。それこそもう目を白黒させながら過ごしてきました。自分の行為が結果につながる。仕事を通じて自信も持てました。困ったときは助けてくれる人が必ず現れました。僕の人生は脱サラしてからが最も充実しています。僕を裏切ることなくサポートしてくださった元官僚の方、僕を拾い好きに泳がせてくれた小田合繊工業の創業者、そして二人三脚で仕事をさせていただいている創業者の長男。みなさまに心から感謝します。
これから:       
人生終着点もだいぶ近づいてきました。でもまだ頑張れます。まだやるべきことがあります。今振り返れば僕の世代は人類絶頂期でした。しかしこの繁栄は持続不可能です。絶頂期から滑り落ちるときは瞬時。持続可能な社会作りに少しでも役立つなら僕の経験を使ってほしい。若い人たちを縁の下で支えたい。